2011年 03月 13日
3月11日 |
成田に向かうスカイライナーに乗ってまもなく、地震がきました。
最初は電車の揺れかと思っていたけれど、揺れは激しくなる一方。
窓の外は中学校で、校庭の照明ポールがぐわんぐわんと揺れていました。
電車は緊急停車。もう一方の窓側に座っている女性が「こわいこわい」と言っています。
中学校のプールは、水がザブンザブンとあふれ出ていました。
こんな揺れ、初めて。とにかく落ち着くんだ。
こわがる女性に「大丈夫ですよ」と言ったのも、きっと自分に言い聞かせてたんだと思います。
窓の向こうの校庭には中学生が教室から降りて集まってきました。
彼らも先生たちも意外と落ち着いていた。それに勇気づけられました。
「大きな地震が発生。緊急停止です。落ち着いて」と車内放送がありました。
車内のほかの席の方がワンセグでテレビ報道をスピーカーで聞くのに耳を傾け、
隣の女性も携帯の地震速報を見せてくれて、
宮城で震度7レベルというのはまもなくわかりました。
電話は通じないけれど、とにかくメールで「無事」の一報を家族に。
その間も大きな余震が続きます。
成田に行くべきか、実家に戻るべきか、どうやって成田に行くべきか、
ものすごい量の荷物をどうやって運ぶべきか、どうやって実家に帰るべきか。
自分がどうすべきか、という判断がつかず、
冷静を装いつつも、頭のなかはぐるぐるです。
車内放送で「復旧のめどたたず。最寄りの駅まで順番に誘導します」と。
4つある荷物をひとりで運ぶすべはなく、ボストンバッグをひとつ座席に残しました。
リュックを背負い、楽器ケースをななめがけし、超ヘビー級のスーツケースを押すぞ、
と立ち上がったところ、女性の方が「私、小さいバッグしかないからボストン持ちますよ」と。
これから線路脇を歩かなくちゃいけないのに申し訳ないと思いつつ、
女性があまりにも快く言ってくださるので、思い切って甘えました。
火事場のバカちから。
線路の上を300メートル、町屋駅までふんばりました。
でも、行く手にホームが見えたとたん、気がゆるみ、スーツケースが突然重くなりました。
レールの間を一休み一休みして進んでいると、
学生さんが「ボクのが軽いですから交換しましょう」と。
これにも甘えさせてもらいました。ホント、ありがたかったです。
京成町屋の駅は停電で、東京メトロも不通です。
いきなり町屋という未知の街に、大きな荷物とともに放りだされて呆然。
ボストンを持ってもらった女性と、こわがっていた女性と、私。
見送りする姪御さんはもう成田にいる、一緒に旅行に行く友達も成田についている、
という彼女たちはなんとか成田へと思っています。
地震から1時間以上経った町屋の街の様子は、もういつもどおりのように見えました。
お店もやっているし、普通に歩いているし、自転車に乗っているし。
そのなかで大荷物の3人組は正直、浮いています。
バス停には列があるので動いているということでしょう。
成田なら、とまずはタクシーを探しましたが、どれも送迎か回送。
レンタカー会社もダメ。バスしかないと、ふたたびゴロゴロとスーツケースを押します。
とにかくJRに行けば、次につながる交通手段があるだろう、と
バスにようやく乗り込んで鴬谷駅へ。
そして着いたころにはやや日が暮れかけていました。
本当に成田に行くべきなのか。
目の前の小さな不動産屋さんにとりあえず最新情報を聞いてみようと入ると、
奥さんは「JRも私鉄も今日は一日動かないって言ってる」と。
初めてテレビを見て、ヘルメットをかぶって報道するキャスターや
燃えている石油タンクの映像に愕然。その時点で、私は成田行きをあきらめました。
奥さんはネットもトイレも使わせてくれて、携帯の充電もさせてくれました。
実家までの道も地図をコピーしてくれて。本当に感謝です。
成田閉鎖という情報を得て、一緒にここまで来た女性2人も、
さすがに成田行きをあきらめました。
しかし、今度はどうやって家に帰るか。
京王線に東急線。東京の西側はさらに果てしない距離です。
私の実家はがんばれば徒歩30分。
こういうときには助け合い。交通機関が復旧するまでうちにいよう、ということになりました。
山あり谷ありの30分の道のりを、ひたすら進みました。
途中、都心の会社から自宅へ向かうであろう、見たこともない人の波に何度も出会いました。
道々で、警察官が親切に道案内しています。
「浦和はどうやって帰ったらいいですか」という声に驚きましたが、
その気持ち、この期におよぶとよくわかります。
ようやく実家に辿り着き、初めてこのとき名乗りあいました。
でも思えば、3人だったからこそ助けあってここまで来れたのかなと思います。
深夜、都内の交通はやや復旧しましたが、彼女たちは一晩休んで、
翌朝、ほぼ完全に交通が元通りになってから、それぞれの家に帰っていきました。
都内は帰宅難民があふれた夜でした。
2日経って、都内はほとんど元通り。みな、家で過ごすことができます。
でも、震源地や原発付近では、本当に驚くほどの多くの方たちが被災しています。
ひとりでも多い方が、すこしでも早く、助かりますように。切に切に願います。
本当に微力でも、何かできることをしたいと思っています。
最初は電車の揺れかと思っていたけれど、揺れは激しくなる一方。
窓の外は中学校で、校庭の照明ポールがぐわんぐわんと揺れていました。
電車は緊急停車。もう一方の窓側に座っている女性が「こわいこわい」と言っています。
中学校のプールは、水がザブンザブンとあふれ出ていました。
こんな揺れ、初めて。とにかく落ち着くんだ。
こわがる女性に「大丈夫ですよ」と言ったのも、きっと自分に言い聞かせてたんだと思います。
窓の向こうの校庭には中学生が教室から降りて集まってきました。
彼らも先生たちも意外と落ち着いていた。それに勇気づけられました。
「大きな地震が発生。緊急停止です。落ち着いて」と車内放送がありました。
車内のほかの席の方がワンセグでテレビ報道をスピーカーで聞くのに耳を傾け、
隣の女性も携帯の地震速報を見せてくれて、
宮城で震度7レベルというのはまもなくわかりました。
電話は通じないけれど、とにかくメールで「無事」の一報を家族に。
その間も大きな余震が続きます。
成田に行くべきか、実家に戻るべきか、どうやって成田に行くべきか、
ものすごい量の荷物をどうやって運ぶべきか、どうやって実家に帰るべきか。
自分がどうすべきか、という判断がつかず、
冷静を装いつつも、頭のなかはぐるぐるです。
車内放送で「復旧のめどたたず。最寄りの駅まで順番に誘導します」と。
4つある荷物をひとりで運ぶすべはなく、ボストンバッグをひとつ座席に残しました。
リュックを背負い、楽器ケースをななめがけし、超ヘビー級のスーツケースを押すぞ、
と立ち上がったところ、女性の方が「私、小さいバッグしかないからボストン持ちますよ」と。
これから線路脇を歩かなくちゃいけないのに申し訳ないと思いつつ、
女性があまりにも快く言ってくださるので、思い切って甘えました。
火事場のバカちから。
線路の上を300メートル、町屋駅までふんばりました。
でも、行く手にホームが見えたとたん、気がゆるみ、スーツケースが突然重くなりました。
レールの間を一休み一休みして進んでいると、
学生さんが「ボクのが軽いですから交換しましょう」と。
これにも甘えさせてもらいました。ホント、ありがたかったです。
京成町屋の駅は停電で、東京メトロも不通です。
いきなり町屋という未知の街に、大きな荷物とともに放りだされて呆然。
ボストンを持ってもらった女性と、こわがっていた女性と、私。
見送りする姪御さんはもう成田にいる、一緒に旅行に行く友達も成田についている、
という彼女たちはなんとか成田へと思っています。
地震から1時間以上経った町屋の街の様子は、もういつもどおりのように見えました。
お店もやっているし、普通に歩いているし、自転車に乗っているし。
そのなかで大荷物の3人組は正直、浮いています。
バス停には列があるので動いているということでしょう。
成田なら、とまずはタクシーを探しましたが、どれも送迎か回送。
レンタカー会社もダメ。バスしかないと、ふたたびゴロゴロとスーツケースを押します。
とにかくJRに行けば、次につながる交通手段があるだろう、と
バスにようやく乗り込んで鴬谷駅へ。
そして着いたころにはやや日が暮れかけていました。
本当に成田に行くべきなのか。
目の前の小さな不動産屋さんにとりあえず最新情報を聞いてみようと入ると、
奥さんは「JRも私鉄も今日は一日動かないって言ってる」と。
初めてテレビを見て、ヘルメットをかぶって報道するキャスターや
燃えている石油タンクの映像に愕然。その時点で、私は成田行きをあきらめました。
奥さんはネットもトイレも使わせてくれて、携帯の充電もさせてくれました。
実家までの道も地図をコピーしてくれて。本当に感謝です。
成田閉鎖という情報を得て、一緒にここまで来た女性2人も、
さすがに成田行きをあきらめました。
しかし、今度はどうやって家に帰るか。
京王線に東急線。東京の西側はさらに果てしない距離です。
私の実家はがんばれば徒歩30分。
こういうときには助け合い。交通機関が復旧するまでうちにいよう、ということになりました。
山あり谷ありの30分の道のりを、ひたすら進みました。
途中、都心の会社から自宅へ向かうであろう、見たこともない人の波に何度も出会いました。
道々で、警察官が親切に道案内しています。
「浦和はどうやって帰ったらいいですか」という声に驚きましたが、
その気持ち、この期におよぶとよくわかります。
ようやく実家に辿り着き、初めてこのとき名乗りあいました。
でも思えば、3人だったからこそ助けあってここまで来れたのかなと思います。
深夜、都内の交通はやや復旧しましたが、彼女たちは一晩休んで、
翌朝、ほぼ完全に交通が元通りになってから、それぞれの家に帰っていきました。
都内は帰宅難民があふれた夜でした。
2日経って、都内はほとんど元通り。みな、家で過ごすことができます。
でも、震源地や原発付近では、本当に驚くほどの多くの方たちが被災しています。
ひとりでも多い方が、すこしでも早く、助かりますように。切に切に願います。
本当に微力でも、何かできることをしたいと思っています。
by bonjour_hochiminh
| 2011-03-13 12:34
| 日本